心とは何か? … 唯識論(8)
(注: 以下の記事は、笹本戒浄著 「真実の自己」を抜粋、要約したものです。)
第9話 宇宙大の自己
今あなたには、この場の光景が見えている。この眼界はあなたの心である。また一面から言えば、それがそのまま、見る主としての自己である。
では、サッとあちらの方に目を転じていただきたい。そうすると、そちらの眼界は、やはり別の中身を持ったあなたの心であり、そのまま見る主としての自己である。
けれども、どうだろうか? 前に見ていたときの眼界は全部見る主としての自己であったが、その自己が、目を転ずるときにスッと頭の中に入り、それがまたスッと出て、次の眼界に現れるのだろうか? どうか事実をしっかりつかんでいただきたい。
野原や道を歩くとき、目の前には眼界が広がっている。見る主としての自己は、歩いて行くごとに頭の中に入って次の眼界に現れるのではない。われわれは、見る主、聞く主としての自己を、いたるところに置き去りにしてくるのである。
だから、見る主、聞く主としての自己は、いたるところにある。われわれは家を出てからここまで来る途中、汽車の窓から野や山や川などさまざまな景色を見てきた。それはことごとく、見る主、聞く主としての自己だったのだ。
将来、科学がもっと発達すれば、引力、斥力などを自由自在に利用して宇宙を飛びまわる飛行機ができるかもしれない。その飛行機に酸素を1万年分も備えて進んで行ったとすると、大宇宙のさまざまな光景が見えてくる。400マイル行くと暗黒だそうだが、暗黒ならばその暗黒が見えている。
その眼界は、ことごとく、見る主としての自己である。大宇宙はそっくりそのまま見る主、聞く主としての自己である。知る主、わかる主としての自己は宇宙大である。
一心に修行して大我に目覚めると、大宇宙が自己の内のものとなってくる。現在そういう風になっておられる方が、ご列席の中にもあろうと思われる。そういう人の例として、浄土教報社の主筆だった原青民上人のことをお話ししよう。
原さんは浄土宗大学の初級のとき、私と同じクラスだった。宗乗の教授から何を問われても「わかりません」と答えていたので、教授の方でも「原は仏教がわからぬ男だ」と言って「物理学」というあだ名をつけておられた。
その原さんが、卒業まぎわに肺結核になり、「5年は生きられまい」という死の宣告を受けた。原さんは煩悶した。そして山崎弁栄聖者に直々の教えをいただき、念仏の修行をするようになった。鎌倉の千住院というお寺にこもり、病気の苦しさもがまんして、2夜、3夜と徹夜で念仏した。
ある夜、自分と森羅万象との関係を考えながら念仏していると、忽然として何もなくなってしまった。自分が叩いている木魚の音も聞こえない。周囲の壁も天井も畳もない。透き通った空間もない。自分の体もない。
色も形も音も、暑さ寒さも、重さ軽さも、柔らかさ硬さも、匂いも、一切が消えてしまっていた。
念仏をしながら眠りこんでしまったのかというと、そうではない。ハッキリと目覚めている。色も形もなく、重くも軽くもないというのでは、何が何だかわからないのかというと、わからないどころではない。何がハッキリしているといって、これほどハッキリしたものはない。何が確実といって、これほど確実なものはない。全くの無一物の中に、ただハッキリハッキリだけが在る。
だが、しばらくすると普段の自分にもどったので、その夜はそれで寝てしまった。
翌朝、目が覚めて庭を見た原さんは、不思議でたまらなかった。自分と森羅万象との関係が一変していたからだ。昨日までは、森羅万象は自分の外に見えていた。それが今日は、何もかも自分の内側に見えている。
原さんは、一切が自分の心であり、一切の活動が自分の心の働きであることがハッキリわかった。そして次の日も、一切は自分の内側に見えていた。もうその自己は、今まで思っていたようなちっぽけな小我ではなく、大宇宙を我とする大我であることに目覚めていた。
原さんは、自己とは死なない者であることがハッキリわかり、転げまわって喜んだ。そしてそのときから、すっかり落ち着くことができた。
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