心とは何か? … 唯識論(1)
Ram Dass (born Richard Alpert; Apr 6, 1931 – Dec 22, 2019)
自己とは何か? 世界とは何か? ―― プロローグ ――
ラム・ダス著「ビー・ヒア・ナウ」という本に、こんな一節がある。(26年前に読んだ記憶なので、細かいところは違っているかもしれないが)
1960年代の初め、ハーバード大学教授であり精神分析医でもあったリチャード・アルパートは、社会的にも経済的にもアメリカ人の成功者の頂点を極めていた。けれども何か根本的な満足感が得られず、他の精神分析医の個人分析を受けながら、「自分とはどういう者か」という問題に意識を集中していた。
また、当時ハーバードではLSDなどのドラッグがもたらす変性意識の研究・実験が盛んに行われ、彼はその研究者でもあった。
ある日、彼は強力なLSDをとった。すると目の前に一つの幻影が現れた。それは《ハーバード大学教授》という姿の自分だった。そして「なるほど、これが俺か…」と思った途端、その幻影は消え、《精神分析医である自分》という幻影が現れた。「ああ、これも俺だ…」と思うと、またその幻影も消えた。
それから次々に《富裕な中年男性》、《アメリカ人》、《よき愛人》、《優秀な人間》、《思いやりのある人間》…等々、それまで彼が「自分は○○だ」と思っていたその自己イメージが、一つ一つ現れては消えていった。
「そうか! 俺が今まで自分だと思っていたものは、皆、ただの幻影に過ぎなかったのだ。幻影なんか無くてもかまわない。俺はただのリチャード・アルパートだ」――そう思った途端、その名前の幻影が現れ、消えた。
「そうか! 名前もやっぱり幻影の一つだ。本当の俺は、この体以外の何者でもなかったのだ」――そう思って自分の体を見ると、なんと、その体が足元から次第に消えていき、完全に無くなってしまった!
「俺が無くなった!」 彼はパニックになった。すると虚空の中に声が聞こえた。「無くなったと気づいている、その気づきの主は誰だ」 ・・・・・・
わたしたちは普通、「自分とは、この肉体である」と思っている。けれども古今東西の宗教的覚醒者たちは、そうではないのだということを明言したり、暗示したりしている。その中で、浄土宗 光明会の笹本戒浄上人(1874-1937)の説明は、とてもわかりやすく、かつ思考力を刺激される。
上人は、深い悟りを得た宗教者であるとともに、たいへん聡明な知識人でもあった。その著書「真実の自己」は、自身の悟りの体験を元にして、唯識論や自然科学の知識もまじえながら、「自己とは何か、心とは何か」ということを、宗教的体験がない者にもわかるように、やさしく理詰めに説きあかしたものである。
この本は1936年、1983年、2000年と、3度にわたって刊行されているが、残念なことに今は絶版になっているらしい。それで、ここにその要約をしてご紹介してみたいという気になった。
とは言え、わたしは唯識や自然科学については全く無知なので、上人の説明をまちがって解釈しているかもしれない。おかしいところにお気づきの方は、指摘してただけるとありがたい。
(・・・心とは何か(2) に続く )
【関連記事】
心とは何か 唯識論 (2) 心とは何か 唯識論 (3) 心とは何か 唯識論 (4) 心とは何か 唯識論 (5) 心とは何か 唯識論 (6) 心とは何か 唯識論 (7) 心とは何か 唯識論 (8)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
この画像を表示
心はどこから生まれるのか -脳から考える“心"の真実- 単行本(ソフトカバー) – 2017/3/23
永井 哲志 (著)
どうぞよろしくお願い致します。
投稿: 永井哲志 | 2017年5月14日 (日) 午前 09時17分
(笹本戒浄上人については、ほとんどの方が知らないのではないかと思います。
以下の文章は、わが国・印度哲学・仏教哲学の第一人者であった中村元博士のものですが、笹本上人の
人柄を知る上でも貴重な文章となっております。笹本上人はホンモノの宗教家であったということができ
ると思います。)
私が感銘を受けた宗教家ー笹本戒浄上人ー
中村 元(インド哲学・元東大教授)
一、
全然無縁の人に深い感銘を与えるというのは、よくよくのことである。
それには、感銘を与える側にそれだけの徳が備わっていなければならないし、
また受ける側にはそれだけの機根、素質がなければならないし、機縁というものも大切である。
わたくしは、少年時代には笹本戒浄上人にも、さらにさかのぼって弁栄聖者にも全く無縁であった。
弁栄聖者のことを最初に耳にしたのは、昭和五年か六年ごろ(1930~31年)のことであったと思う。
第一高等学校で菅虎雄先生のドイツ語の講義の時間のことだった。
「近年、弁栄という坊さんがおったが、これは偉かったで・・・」と言われたが、
こころの底から感嘆して言われた言葉であるので、わたくしの心に強い印象を残した。
東京大学で印度哲学科に入ったら、二年先輩に、村山宏氏がおられた。
村山さんは、・・・お家が〔弁栄聖者の主宰されている〕光明会の信徒であり、その話をされるので、
ますます引きつけられるようになった。あるときは光明会の書物を求めたいと思って、
・・・〔弁栄聖者のお弟子さんの〕田中木叉師のお宅をお訪ねしたこともあった。
二、
たまたま浅草の松葉町の橋本徳三郎氏方でお集まりがあるとのことで、伺ったことがある。
二階のぶっ通しの大きな部屋に大勢の方々が集まっておられた。
その時説法をなさったのが笹本戒浄上人であった。
正面にかけて光に照らされている阿弥陀如来の御絵図を指しながら、
「よく阿弥陀様を見つめて、お念仏を唱えなさい。阿弥陀様がお姿を現してくださいますよ。」
と言われた。
御説法の詳細は忘れてしまったけれども、慈悲に満ちた、温和で、柔らかな笹本戒浄上人のお顔を忘れる
ことができない。
笹本戒浄上人にお目にかかったのは、その時ただ一度だけである。それも御説法を伺っただけである。
しかし今なお忘れられぬ感銘を残しているのは、言葉では一々表現することのできない御高徳のゆえであ
ろう。
あのような方が、本当の宗教家ではないかと思う。宗教の真偽・優劣を決めるものは、教義ではなくて、
慈悲のこころが具現されているか、どうか、ということではなかろうか。
(『笹本戒浄上人全集』推薦のことば)
投稿: 鈴木 千里 | 2016年3月13日 (日) 午後 08時54分
amazonで買えます。
「真実の自己」 笹本戒浄著 うぶすな書院
投稿: 鈴木 千里 | 2016年3月13日 (日) 午後 08時49分