« ライヒ・セラピー | トップページ | 心とは何か? … 唯識論(1) »

2004年10月 8日 (金)

わたしの死生観

(2000年12月2日 母への手紙より)
 <―― 前略 ――>

leaf65.gif

わたしは短大を卒業した頃から生死の問題に興味を持つようになり、それ以来、真宗や、浄土宗、禅宗、キリスト教、ヒンドゥー教、諸々の新興宗教など、あちこちの法話を聞きに行ったり、それに関する本を読みあさったりしてきました。

ことに、漠然とした死の不安が強かったのは30才の頃で、「今までずっと、将来のために今を犠牲にするという生き方を続けてきたが――つまり、大学に編入するとか、資格をとって日本語教師になるとか、外国放浪をするとかの目標を数ヵ月後や数年後に設定しておいて、それまでは大嫌いな職種のアルバイトを我慢してやりながら生活費を切りつめられるだけ切りつめてお金を貯める、という禁欲生活を続けてきたが――もしその目標に達する直前に死んでしまったら、まったく無意味な人生だったということになるではないか…」 と思うと、むなしさと焦りでひどい鬱状態におちいりました。

leaf65.gif

そんなとき、友ちゃんがすすめてくれた本で、ベナレスの火葬場の生々しさ――大勢の人々が行き来しているガンジス河の沐浴場の、囲いも何もない地面に薪をうず高く積みあげ、その上に、布にくるんだだけでお棺にも入っていないむきだしの死体をのせて焼く――を読み、こんなショッキングなものを実際に見たら、何かが変わるかもしれない、と思いました。それがインドに行くようになったきっかけです。

そしてインドでは、その火葬場を見るよりもっとショッキングなことをいっぱい体験し、中でも 『原始意識への旅』 に書いた神秘体験をしたことで、わたしの世界観、死生観が180度変わりました。

それまでは、「わたしはこの肉体であり、心はその肉体の中 (たぶん脳の中) にある」 と思っていたけれど、どうもそれは違うのではないかと思うようになったし、また、キリスト教の 、「神は、宇宙いっぱいに満ち満ちた、愛と全知全能の霊である」 という表現や、仏教の、 「阿弥陀仏は、時間と空間を超えた、太陽よりも明るい清浄な光であり、何ものにも妨げられない無限の智慧と歓喜の不可思議な光である」 というような表現も、ただ単に 「神仏は最高にすばらしいものだ」 ということを、言葉を飾って文学的、象徴的に言っているのではなくて、根源的な意識状態を体験した覚醒者たちが、その体験をそのまま描写したものなのではないか、と思うようになったのです。

もっと詳しく言うと――

leaf65.gif

普通わたしたちは、思考と感情と感覚 (=顕在意識) を心と呼び、自分の心と人の心は別々だと思っている。

けれどもその心の奥には、自分では気づいていない心の層 (=個人的無意識) があり、そこには胎児期以来 (または前世、前々世以来?) のすべての記憶や思いこみが蓄えられているらしい。

性格や習癖は、この個人的無意識の中にある強い思いこみでできているため、普通の意志 (顕在意識)では変えられないが、瞑想や、催眠や、強い精神的ショックなどでその顕在意識の働きが抑えられると、自然に変わることがある。

数人がかりでないと動かせないはずの重い箪笥を、火事だと聞いたとたんに一人で運び出していたという 『火事場の馬鹿力』 と呼ばれる現象も、「重すぎて持てるはずがない」 という顕在意識の思いが精神的ショックで一時的に抑えられたために起こるのだろう。

leaf65.gif

この個人的無意識のさらに奥には、時間と空間を超えてすべての人間、動物、植物の心とつながっている心の層 (=集合的無意識) があり、そこには原始以来の進化の記憶一切が蓄えられているらしい。

人間や動植物の体を作っているのも、呼吸、消化吸収、排泄、歩行、視覚、聴覚などの体の働きを司っているのも、この集合的無意識であり、遠隔透視、未来予知、テレパシー、フィリピンの心霊手術なども、この集合的無意識の働きで起こると思われる。

leaf65.gif

普通わたしたちは、ものが見えるのは目があるから、音が聞こえるのは耳があるから、と思っている。

けれども超能力者と呼ばれる人たちの中には、何百キロも離れた所のものを見たり聞いたりできる人もいるし、ふつうの人でも、催眠術をかければ目隠しをして文字を読めたという実験報告や、街の中に立っている人が見たり聞いたりしていることを、防音遮断した実験室の中の催眠下にある人がそのまま見たり聞いたりできたという報告もある。

さらに臨死体験者になると、目や耳はおろか、脳波も呼吸も心臓も止まってしまった状態で、遠隔地の事物や未来のできごとを見たり聞いたりしたという人が何人もいる。

このことから、見たり聞いたりする主体は、目や耳や脳の中の視覚神経、聴覚神経などではなく、心であり、その心は肉体の中にあるのではなく、時間空間を超えて広がっているものだということがわかる。

leaf65.gif

また普通わたしたちは、物質や自然現象は心とは無関係に実在していると思っている。たとえば 「火に触るとやけどする」 という現象は、それを信じると信じないとに関わらず、いつでも誰にでも同じように起こると思っている。

だがインドの火渡りの行者たちは、真っ赤に焼けた炭火の上をはだしで歩いて渡るのに、やけどをしない。最近は欧米でもこの火渡りの行に人気が出てきて、一般向けの潜在能力開発セミナーなどに取り入れられ、1、2週間の瞑想と意識訓練だけでそれができるようになった参加者が何百人もいるそうだ。

また一方では、ある催眠術の実験で、目隠しをした被験者の腕にふつうの鉛筆を押し当て、「これは焼け火箸だから、やけどするぞ」 と 暗示をかけたところ、見る見るうちに本物の火ぶくれができたという。

このことから、「やけど」 という現象を起こすのは、火それ自体ではなく、心の奥深くにある 「火に触るとやけどする」 という強い思いこみだということがわかる。その思いこみは、集合的無意識の中に埋めこまれている太古の生物の記憶なのだろう。

leaf65.gif

そして、その集合的無意識のさらに奥、すなわち心の最奥部には、人間や動植物だけでなく、宇宙一切の無生物も月も星も真空も含む根源の心 (=普遍意識) がある。

普遍意識は、始まりも終りもない生命エネルギーであり、その本質は、無限の愛、無限の智慧、無限の喜び、無限の光、無限の創造力である。宇宙の一切は、この普遍意識が具象化したものである。

この普遍意識を、仏教では 『無』、 『空』、『大我』、『真実の自己』 、『阿弥陀仏』などと呼び、ヒンドゥー教では 『ブラフマン』、キリスト教や多くの宗教では 『神』 と呼ぶ。

この世に生まれてくる目的は、顕在意識、個人的無意識、集合的無意識の中にある、自分が執着している思いを実現すること、あるいはその思いや思いこみを解消すること。すべての思いや思いこみがなくなるまで、個々の自我は輪廻転生をくり返す。

すべての執着がなくなれば普遍意識の中に融けこむが、普遍意識は常に創造をつづけ、新たな自我の生成→輪廻転生→普遍意識への融けこみ、というサイクルは永遠にくり返される。

leaf65.gif

宇宙と普遍意識の関係は、睡眠中に見る夢と個人的無意識の関係に似ている。

人は普通、「夢は心であり、実体の無いものだが、宇宙は物質であり、実在している」 と言う。だがそれは、夢からさめた後で言えることで、夢を見ている間はその世界を実在だと思っている。

夢の中にも自分と他人がいるし、海や空もある。そして海には海の匂いや、味や、水の触感があり、自分には自分の心と肉体、他人には他人の心と肉体があって、それぞれに喜んだり、悲しんだり、怒ったりしている。

けれども目がさめてみると、その海の匂いも、味も、水の触感も、他人の心も、肉体も、すべて自分の個人的無意識の中にある記憶や、印象や、思いこみが作り出したものだったということに気がつく。

同様に、わたしたちが実在だと思っている現実世界の海や空も、木や石も、人の肉体も、普遍意識という根源の心から生まれたもの、すなわち心の具象化である、という考えには納得がいく。

心は脳という物質の中にあるのではなく、心の中に脳があり、世界がある。心は無限大である。

leaf65.gif

――かなりあらっぽいけど、以上が現在のわたしなりの世界観です。自分の体験と本から得た知識を元にした類推なので、今後も変化していく可能性は大ですが…。

臨死体験をした人たちは一様に、「無限の愛と智慧に満ちた、太陽よりも明るい清浄な光に出会い、たとえようもない幸福感、喜び、安らぎを味わった」 と言っています。肉体が死ねば、「自分とはこの肉体である」 という思いこみも消えるので、普遍意識とつながることができるのでしょう。

でも、一切の思いこみが無くならない限り、そこにとどまることはできず、また輪廻転生するのではないかと思います。「死んだ肉親に会った」 とか 「美しいお花畑を見た」 というのは、少なくともその時点では、『自他の区別』 という思いこみから解放されていない証拠だから。

わたしたちは死によって、それまで 「これが自分だ」 と思っていたものを失う代わりに、もっと大きな自分に出会う。死とは、永遠につづく 『未知への旅』 の、一つの扉のようなものではないかと思っています。

leaf65.gif

 <―― 後略 ――>

« ライヒ・セラピー | トップページ | 心とは何か? … 唯識論(1) »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/40564/1624897

この記事へのトラックバック一覧です: わたしの死生観:

« ライヒ・セラピー | トップページ | 心とは何か? … 唯識論(1) »