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2004年7月27日 (火)

できるということ (2)

また、このとき起こった変化は、感覚や表情だけでなく、体全体の働きにも現れていた。

わたしは子供の頃から体がゴチゴチで、運動神経が極端ににぶく、学校の体育も、まりつきやお手玉のような体を使う遊びも、何一つできなかった。そして、「わたしは生まれつき愚図で、のろまで、みっともないデクの棒」 という強い劣等感をもっていた。

その旅の初めに北インドのヨガ道場に1ケ月滞在してハタ・ヨガを習ったが、前屈 (両足を前にのばして座り、頭を膝につける) をしようにも、背中が全然まがらず、手の指先を足先に届かせることさえできなかったので、指導者に 「あなたはほんとに絶望的だね」 と笑われたものだった。

そのゴチゴチの体が、急に赤ん坊のように柔らかくなり、胸と膝がペタンとつくようになった。そしてヒマラヤの山道を、平地を歩くような速さで上ったり、かけおりたりして、息切れもせず、木の根や石ころにつまづくこともなかった。

その旅の前に東海自然歩道を歩いた時は、体が重くて山道を上るのがつらくてたまらず、下りる時は下りる時で、膝や足首が固いために転びそうになるので、木の枝などにつかまりながらソロリソロリと下り、さっさと先に行ってしまう夫を恨んだり、わたしのずっと後ろを息も絶え絶えに歩いて来る妹に苛立ったりしたものだったのに――

そして夢中になったのが、キャッチ・ボール。

わたしは子供の頃、球技が特に嫌いだった。かけっこや器械体操などは、全然できなくても自分がみじめな思いをするだけですむのだが、球技は、自分が失敗するとチームの迷惑になる。体育の先生が 「今日は球技をやろう」 と言われると、級友たちは大喜びだったが、わたしは恐怖に身がすくんだ。

昼休みにも、級友たちが男の子も女の子もいっしょになって楽しそうに校庭でドッジ・ボールをして遊ぶのを、わたしは教室の窓から羨ましい思いで眺めていたものだった。

そのわたしがネパールで、旅行者仲間たちとキャッチ・ボールをして楽しむようになったのだ。それも、2人で1個の球を投げあうという単純なものではなく、10人くらいが広い輪になって立ち、6個くらいのジャグリング・ボールをいっぺんに投げ受けする 「ウルトラ・キャッチボール」 を!!

子供の頃は、「ボールがこわい」 という思いで体を固めていたため、たった1個のボールが飛んできても体が反応しなかった。

だがこの 「ウルトラ・キャッチボール」 では、力を抜いてリラックスしているので、右からボールが飛んでくれば右手がひとりでにそのボールに伸び、左から飛んでくれば左手が伸びる。2、3個のボールが別々の方向から同時に飛んでくれば、バババッと忍者のように受けて別々の方向に投げかえす。そうしながらも、今どの人に隙があり、どの人に隙がないかとか、どの人にはどんなスピードで体のどの部分に向けて投げれば全員が楽しめるゲームになるか、というようなことが瞬時に感覚的にわかり、手はひとりでにそのようにボールを投げている。

私はまるで超能力者になったような気がして、インドやタイで友だちになった旅人たちを誘っては、夢中になってこのゲームをやった。

元々運動の得意な人なら、これぐらいのことは、あたりまえのこととして、なんとも思わずやってのけるのだろう。現に、その時いっしょに遊んだ人たちの中に、高校時代、オリンピック選手候補者だったというイギリス人青年がいて、彼はこのゲームをいかにも楽々と余裕を持ってやっていた。

だが、それ以外の人たちは、みんな私より下手で、よくボールを落としていた。私は生まれて初めて 「人より運動ができる!」 という気分を味わい、有頂天になった。

また水泳も、急に水の精にでもなったかのように自由自在に泳げるようになった。
その時のことは、のちの手紙にこう書いている。

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インドの次にタイの南の小島に数ケ月滞在しました。わたしたちの泊まっていた海辺のバンガローの裏手には、全長500メートル、幅100メートル、深さ60メートルくらいの湖がありました。

わたしはその1年前までは犬かきで数メートルしか泳げなかったのですが、その旅の直前に東京のスイミング・スクールに2ケ月通い、顔を水につけることから始めて、平泳ぎ、背泳、クロールで25メートル泳ぐ訓練を受けていました。

でも、体の各部分をインストラクターの指示通りに、「手の平はこういう形にして、こういう角度で水をかき、この角度まで上がったときに首をこう曲げて息を吸い、膝は曲げないで、やや内股気味に…etc.」 と動かそうとすると、体も頭も混乱してしまい、25メートル泳ぐにも鼻から水を吸ったり沈みかけたりして、死に物狂いでした。

ところがこの湖で、なんの目的も期待も持たず、風呂にでも入るような気持ちで1メートルの深さの所にしゃがんでみたら、体が自然に浮いてうつぶせのかっこうになりました。そのまま何気なく手を動かしてみると体がスーと進みます。

その感触がおもしろくて、いろいろな角度や速さで動かして試し、次は足もいろいろな動かし方を試して遊んでいるうちに、スイミング・スクールで習ったよりもずっと楽で効率的な「変形平泳ぎ」ができるようになりました。そしてその泳ぎ方で、全長500メートルの湖を楽々と1日3往復することが日課になってしまいました。

この湖の近くには民家はなく、バンガローにはわたしたちのようなヒッピー旅行者が10人くらい長期滞在していましたが、その人たちもわたしの夫もその湖にはめったに来ないので、わたしはいつも1人で、何時間もイメージの中に浸りきって遊びました。

自分を亀だと思えば自然に亀のような泳ぎ方になるし、魚だと思えば魚のような泳ぎ方が出てくる。ある時は草原を走るライオンになりきって、目の前を一目散に逃げて行くウサギを全速力で追いかけていたら、あとで旅仲間の1人が「湖を通りかかったら、ユーコがまるでライオンが走るように泳いでいたよ」と言いました。

またある時は、水に潜って勢いよくグルグルまわっては水面高くザバッと跳びあがるという泳ぎを1時間くらい夢中になって続けたこともあrました。やればやるほどエネルギーが湧いてくる感じでした。

一番不思議だったのは、ある時、岸辺にふらりとやって来た夫を見てうれしくなり、とっさに 「ねえ見て。わたし、どんな泳ぎ方でも、思った通りにできるようになったよ。ほら!」 と言ったとたん、胸から上を水面に出して右に45度くらいの角度で傾斜したまま、真横にスススーと進んでしまったことです。

そんな泳ぎ方ができるものだとは自分でも思っていなかったので、なんだか超能力者になったような気がしました。


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そのほかにも、歌うこと踊ること、絵を描くこと、石けりをすること、小さな子供や動物とつきあうこと…など、それまでできなかった様々なことが急に自由自在にできるようになった。そしてそういう能力は、年月がたつうちに少しずつ薄れてはきたが、完全に消えてしまいはしなかった。

……ということで、最初の問いにもどる。

何かが 「できる」 とはどういうことだろうか? 
「固有の才能」などというものは、ないのではないだろうか? 
「ある人はある能力を持って生まれ、別の人は持たないで生まれる」 などということは、ないのではないだろうか?
 
すべての人はすべてのことが完璧にできるように生まれついていて、その中のある人たちは、たまたま 「自分は〇〇ができる」 と思いこむような体験を幼時から積み重ね、別の人たちは 「自分は〇〇ができない」 と思いこむ体験を積み重ねてきたため、頭と体がそのような働きをするようになっている――ただそれだけなのではないだろうか?
 
「できる」「できない」というのは、すべて潜在意識内の思いこみ――つまり、過去に持った強烈な印象の記憶にすぎないのではないだろうか? 

だから、何かの強力なショックでその記憶にゆすぶりがかけられると 「火事場の馬鹿力」 と呼ばれるような力が出てきたり、催眠術をかけられると超能力のような働きが出てきたりするのではないだろうか?

どれだけできるかと思えるかによって、できることが決まるのではないだろうか?

オリンピック種目の世界新記録の技は、いつも人間の能力の限界のように思えるのに、年がたつにつれてどんどん更新されている。それまで 「できないこと」 と思われていたことを誰かがやることによって、「やればできること」 のイメージのレベルが上がるからだろう。そうやって潜在意識内の思いこみが少しずつ書き換えられ、世界記録がどんどん更新されていくのではないだろうか?

◆幼児に 「自分はできない子」 という思いこみを植えつける言葉:

「あぶないよ」、「気をつけてよ」、「~したらどうするの」、「〇〇ちゃんを見てごらん」
「ほら、ダメでしょ」、「またやっちゃったの」、「どうしていつもそんなことばかりするの」
「“ごめんなさい” は?」、「“ありがとう” は?」、「“こんにちは” は?」

◆幼児に 「自分はできる子」 という思いこみを植えつける言葉:

「へーえ、どうしてそんなこと思いついたの?」、「あんたって、すごい子だね!」
「あんたって、不思議な子だね!」、「あんたって、おもしろい子だね!」
「あんたって、賢い子だね!」、「あんたって、強い子だね!」、「あんたって、勇気があるね!」
「あんたって、優しい子だね!」、「あんたって、よく気がつくね!」、「あんたって、楽しいね!」
「あんたって、力があるね!」、「あんたって、たくましいね!」

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コメント

とっても興味深い記事です・・・わたしがどれだけ子供の自信を奪っているのか恐くなりました。わたし自身が自分に自信を持って,子供を勇気づけてやりたいです。

投稿: ふじい ようこ | 2006年10月26日 (木) 午前 05時22分

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