2008年3月27日 (木)

山元加津子さんのお話 (1)

ずいぶん久しぶりの更新です。今日は、わたしがお気に入りに登録しているサイトの中でも特におすすめのサイトを紹介させていただこうと思います。

サイト名は 『たんぽぽの仲間たち』、作成者は山元加津子さんという養護学校の先生で、内容は、山元さんがその時その時に出会った人たちについてのエッセイ集です。

山元さんはいつも全身全霊で人と接しておられるので、相手の方とのあいだに深い深い出会いが起こります。そのエッセイを読んでいると、心が洗われ、やわらかい、やさしい気持ちになってきます。もし世界中の人が、毎朝このエッセイを読むか、山本さんのお話のCDや音声ブログを聴いてから一日を始めることにすれば、この世界から争いごとは消えてしまうのではないか……そんな気がします。

山元さんが養護学校で出会った大切なお友達、雪絵ちゃんは、熱が出るたびにだんだん目が見えなくなったり手や足が動かしにくくなる、多発性硬化症という病気でした。その雪絵ちゃんが亡くなる前に、山元さんに、とても真剣なお願いをしました。「障害を持っている人も、そうでない人も、一人一人みんな価値のある、かけがえのない人であり、そのままの自分を好きになっていいんだよということを、世界中の人が知っている世界にしてほしい」 というのです。

山元さんは、そんなことが自分にできるはずがないと思ったけれど、雪絵ちゃんはそのまま亡くなってしまいました。

それで山元さんは、養護学校教師であり、作家、イラストレーターであり、一家の主婦であり、3人の子供の母親である忙しい身にもかかわらず、雪絵ちゃんとの約束を守るため、著書や、講演や、ホームページや、音声ブログや、写真ブログで、一生懸命そのメッセージを伝え続けておられます。

そして、「ホームページに書いてあることを、著作権などは全然関係ないので、自由に使って、できるだけ多くの人に紹介してほしい」 とも言っておられます。

というわけで、『たんぽぽの仲間たち』 のエッセイの中から、わたしのいちばん好きなお話4篇をここに転載させていただきます。

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ゆうきくんの探していたもの
         (元の掲載先は こちら です。)

ゆうきくんの足どりは、前にもましてしっかりして、速度を速めているようでした。わたしはいったいここがどこなのか、学校を出てから何時間たったのか、時計を見る余裕も、街の名前をたしかめる余裕もなくしていました。前を駆けるようにして歩いて行くゆうきくんの姿をただ見失わないようにと、それだけを思っていました。ゆうきくんの軽やかな足どりに比べてわたしの足どりは重く、他の誰と比べても足が遅くマラソンも苦手なわたしにとって、今の状態はもう限界をはるかに越えているような気もしました。

(学校のみんなが心配しているに違いない・・・)わかってはいても、公衆電話に駆けこむ間にゆうきくんを見失ってしまうに違いないという思いから、まだ電話もかけれずにいました。

(ゆうきくんはどこに向かって歩き続けているのだろうか? あてもなく歩いているのだろうか? それとも何かを探しているのだろうか?)

前だけを見て歩き続けているゆうきくんは、もう行き先を決めているようにも見えました。けれどゆうきくんの気持ちを知る方法を知らないわたしには、もう何時間も歩き続けているゆうきくんは、ただ歩きたくて歩いているだけのようにも感じました。

ゆうきくんのお母さんの言葉が、さっきから頭の中に何度も何度も浮かび上がってきていました。今年の四月のはじめのことでした。スクールバスの発車の時間に遅れてしまったり、電話がないままお母さんがご自分の車でつれてこられることがたびたびあるということで、主事の先生からゆうきくんのお母さんに、「他のお母さんが待っているのだから気をつけてほしい」 というお話があったのです。

おかあさんは少しためらわれて、やるせなさそうに溜め息をつかれた後、怒りを抑えきれないような激しい口調で話し始められました。

「わたしたちの苦しみなんて、誰もわからないんです。学校の先生にはとてもお世話になっています。でも学校の先生は、学校にいるあいだだけ、それも仕事じゃないですか。わたしたちはずっとなんです。ほっと安心していられるのは、この子が眠っているときだけです。それだからといって、眠っているからと安心して眠れるわけじゃないんです。もしわたしがこの子より後に起きたら、この子はもう家にはいないかもしれないんです。

いつの頃からか、この子はすぐに外へ走り出すようになりました。わたしはそんなとき、寝ている赤ん坊の弟をただひっつかむように抱きあげて、あの子の後を追いました。追いかけて追いかけて、捕まえようとしても、するりと抜け出してしまいます。そうなったら、わたしの追いつかない早さで走って行ってしまいます。だからわたしは、ただあの子のあとを追うだけでした。

赤ん坊がおなかをすかせて泣いても、おむつをずっと替えないまま、もう、おしっこもうんちも中でしていると分かっていても、それでおむつかぶれがひどくなっていっていることが分かっていても、おむつを替えたりミルクをあげることなんてできないんです。泣き叫ぶ赤ん坊を抱いていると、まわりの人がわたしのことを、鬼とでもいうように見ます。そんなことなんて、気になんてしてられないんです。下の子には、運命なんだから仕方がないのよと思わせてきたんです。

下の子が一歳半になったとき、荒れ狂う海にゆうきが入って行ったことがありました。下の子は一歳半、言い聞かせても分かるはずがないのに、「ここにいなさい。すぐ戻るから、追いかけてきてはだめ」 と言いきかせて弟を浜辺に置き、ゆうきを追いました。

ご存じでしょうけど、まだ一歳半と言えば、親といつもくっついていなければ安心できない年頃です。かといって、下の子をつれて海に行くことなどできるはずもなく、けれど追いかけなければゆうきが死んでしまうから、わたしを追おうとする下の子を、たった一歳半のその子の頬をひっぱたいて、ついてくるなと叱りつけ、泣き叫ぶ子を岸において、ゆうきを追いました。

それまでだって、いっそ死んでくれたらと、ゆうきのことを何度も思ってしまったことはあったけど、いま荒れ狂う海にむかって歩いている子の後を追わないでなぞいられないんです。

ですが、毎日毎日の繰り返しの生活の中で、今日はもう追うことをやめようと思ったことも、一度や二度ではありませんでした。追いかけている途中、もうやめたと座りこんでも、あの子は決してふり返らないんです。わたしが後を追っていようと追っていまいと、そんなことは気持ちの中にないんです。あの子の心にわたしなど、どこにもいないのかもしれません。

朝、あの子をバスに乗せようとすることが、どんなに大変なことなのか、察してはいただけませんか? 連絡する余裕がわたしにあったら、わたしだってもちろんします。それができないんです。わたしの気持ち、先生にわかりますか?」

お母さんのお話に、主事先生もわたしたちも言葉を失っていました。自分たちのただ一人として、お母さんのされていることの何分の一もできないと思いました。

こんなこともありました。参観日に来られたお母さんが話してくださったのです。

「下校の学校のバスから降りると、ゆうきはまたいつも歩き出します。今では保育園の下の子は家で待つようになって、助かっています。それでもまだ、保育園の他の友だちが『お母さん、お母さん』と甘えているのを見ると、下の子が不憫になるんです。あきらめてもらうしかないと思っています。

でも、ゆうきはこの頃、どうして道がわかるのか不思議なんですけど、夕方、日の沈む頃になると、決まってわたしの車が停めてある駐車場へ帰ってくるようになりました。初めての道でも決して迷わずに、いつのまにか戻って来れるんです。どこへ行ってもそうです。そしてわたしの車に乗りたがります。わたしたちは、決まって海に行くんです。夕日が沈むのを二人で見ていると、こんな静かな時間を二人で持てるようになる日が来るなんて考えもしなかったなあ、と幸せな気がします。今でも歩きまわることは変わってはいないけど、いつか、もっと静かでゆっくりした時間があの子と持てるかも知れない、という希望のようなものを感じるんです」

学校では、入学当初をのぞいて、ゆうきくんが一人でどこかへ出かけるということはほとんどありませんでした。たまにどこかへ行こうとしても、大きな声で「ゆうきくーん」と呼ぶと、少しいらいらして頭を自分の手でごんごん叩きながらも帰ってきてくれていたのです。

けれど四日前、悲しいことが起きてしまったのです。朝、ゆうきくんを送られたお母さんは、そのまま車でどこかへ出かけられる途中だったのだそうです。一旦停止の場所で、どうしてだかお母さんは一旦停止をされずに直進したのです。そしてとてもとても悲しいのですけど、ゆうきくんのお母さんは、大きな車とぶつかって、亡くなられてしまったのです。

 わたしたちも、朝お会いしたところだったので、その電話が信じられませんでした。下校時までゆうきくんは学校にいて、それからわたしがゆうきくんの家まで送りました。お父さんは悲しみの中で、お通夜とお葬式の間のゆうきくんのことを心配しておられました。「わたしの家に来ていただいてもかまわないのですが」とお話しても、お父さんは首を縦には振られませんでした。

「ゆうきは、亡くなった母親が、自分の身体の一部のようにして守って大きくしてきたんです。父親として、僕は何ひとつできなかった。これからは、僕がゆうきを守っていかなければなりません。しかし仕事もあります。あまりにも大きい母親の苦しみを、今になって思います。しかし、母親は自死ではないと信じています。ゆうきが戻る前に夕飯の買い物をするために、いつものあの道を通ったんです。苦労は人一倍しているけれど、あれはゆうきがいい方へ向かっていると、この頃うれしそうだったんです。

夜は母親でなければだめなんです。先生に迷惑はかけられません。施設に二、三日入所を電話で申し込みましたが、今すぐでは職員の都合がつかないということでした。しかたがないので、三日間病院に入れることにしました。あの子を鍵で閉じこめることは忍びないし、それは母親があれほど苦労しながらも決してしなかったことだけれど、ゆうきの命を守るためなので、三日間だけゆうきにも母親にも目をつぶってもらおうと思います」 

それが昨日までの三日間でした。ゆうきくんの同級生のお母さんが、昨日の晩ゆうきくんを見かけられ、「母親が亡くなったことも知らないでいる様子のゆうきくんが哀れに思いました。うちの子だって、わたしが亡くなっても悲しむということはないでしょう。これが障害者を子供に持った者の、親の悲しみです」と連絡帳に書いておられました。

ゆうきくんは今日、朝から落ち着かない様子でした。あっちへ行ったりこっちへ行ったりして、椅子に座っている時間がとても短かったのです。わたしはできるだけゆうきくんのそばにいようと思いました。同僚にも、「今日はゆうきくんのそばにいたいので、他の子供たちへの補助をお願いします」と頼んであったのです。

それなのに、ゆうきくんの前にいて、振り返ったときに、もうゆうきくんの姿がそこにありませんでした。外を見ると、グラウンドのポプラの木の下をゆうきくんが駆けて行くのが見えました。大声で同僚に「お願いねー」と言い残して、内履きのまま外へ飛び出しました。

ゆうきくんは、少しも後ろを見ずに歩き続けています。疲れるということをまるで知らないみたいに、速度をゆるめず歩いています。こんなふうにして、お母さんはいつもいつもゆうきくんの後を歩いておられたのです。ゆうきくんは何を、そしてお母さんは毎日何を考えて歩いておられたのでしょうか?
 
そんなことを考えて、ぼっとしてしまっていたのだと思います。車の急ブレーキの音に、心臓がドキっと大きな音をたてました。ゆうきくんは赤信号で道路をわたって行きました。身体の力がへなへなと抜けていくようでした。けれどわたしだって信号が青に変わるのを待ってなんかいられません。クラクションが幾度も大きく鳴ったけど、そしてとても恐かったけど、謝るように頭を下げながらあとを追い続けました。

もう昼もとうに過ぎた頃です。お母さんがおっしゃるとおり、どこを通っていても、ゆうきくんが道を知っているのなら、おなかがすけば学校に帰るのではないかと期待していたことも、もうとうにあきらめていました。病院の鍵のかかる部屋に三日間もいて、今ゆうきくんは歩きたくてしょうがなくなっているのでしょうか?

もう学校が終わる頃です。道行く誰かに何かをことづけようと思ったけれど、ゆうきくんを見失わないようにすることが精一杯で、それもできないままです。ああ、お母さんはこんなふうにして毎日すごしていたのだ・とまた繰り返し思いました。もう足も痛くてたまらず、いるはずのない学校の同僚が捜しに来てくれてはいまいかと、あたりを見渡しました。いつのまにか繁華街はとうに通り過ぎ、狭い路地に入ってきていました。ゆうきくんは知っている道なのか、変わらずどんどん歩いて行きます。

そして角を曲がって行きました。見失わないようにと急いだとたん、足がもつれて、そのまま溝に落ちました。もうわたしの足は限界に来ていたのだと思います。あわてて立ちあがって歩き出し、角を曲がったとき、もうゆうきくんの姿はそこにはありませんでした。 身体がかっと熱くなるのがわかりました。そして急にがくがくと身体がふるえました。お母さんが守ったゆうきくんを、わたしがどうにかしてしまうのではないかと思いました。

「ゆうきくん、ゆうきくん」大声で呼びながら、路地の反対の路地を曲がったとき、そこに広がった景色に息をのみました。ただ追いかけるだけで、どこをどう歩いたのかも知らずにいたけれど、そこには大きな海がありました。狭い路地から急に広がった大きな海は、思いもしなかった景色でした。

そして港のコンクリートの端っこに、ゆうきくんは立ち止まっていました。(ああ、ゆうきくんがいた!) ゆうきくんのそばに行ったとき、わたしの心臓がまた早鐘のように鳴り出しました。信じられないゆうきくんの姿をそこに見たのです。いつもいつも、動いているか、ただぶつぶつつぶやくだけで表情を変えることがなかったゆうきくんが、涙を流して泣いていたのです。

「海に来ようとしてたんだね。お母さんに会いに来たんだね。お母さんを探していたんだね」。泣いているゆうきくんを、わたしも泣きながら抱きしめました。

お父さんに今日あった話をしたときに、お父さんがやっぱり泣きながら、わたしの目の前にノートを差し出されました。それはお母さんの日記でした。お父さんの指し示されたところには、こんなふうなことが書いてありました。

「わたしは今、やっとゆうきの探していた物がわかった気がします。ゆうきは学校バスを降りて、わたしの車を探すために歩きだしていたのです。回り道のように見えても、ゆうきは夕方、日が沈む頃のわたしの車を探し出すために歩いていたのです。ゆうきが小さかったときも、きっとそうだったのだと思います。眠っているわたしのそばを抜け出して、ゆうきが会いたい時間のわたしを探すために、歩いていたのです。

こんなこと言っても、誰もわかってくれないかもしれない。でも、何年も何年もゆうきのあとを追って歩き続けてきたわたしにはわかるのです。ゆうきはわたしのことなど少しも気にしていないと思っていたのに、違っていたのです。あの子がいつも探し続けているのは、母親であるこのわたしだったのです。それがわかったことで、わたしはなお、ゆうきを愛せると思いました」

「この日記を読んで、決心がつきました。仕事をもう少しゆうきの時間に合わせられるものに変えようと思います。ゆうきはこれからも、母親を探し続けるために歩き続けるでしょう。それとも母親がいなくなったのに気がついて、歩き続けることをやめるでしょうか? それとも今度はわたしを探してくれるようになるでしょうか? どちらにしても、わたしはゆうきと弟のことを考えたいと思います。あの子たちはわたしたちのところに、わたしたちの子供として来てくれたのですから」
お父さんが何度も自分で自分に相づちをうちながら話されました。


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